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転塾は逃げではない!子どもの未来を守る、親の勇気ある選択

進学塾に子どもを通わせるというのは、家庭にとって実に大きな決断でしょう。
今や月々4~5万円はもう当たり前。講習や特別講座が加われば10万円超にもなります。決して小さくない負担。それでも「子どもの将来のため」と、家計をやりくりしながら懸命に支えている親御さんがたくさんいます。

だからこそ、塾にはその費用に見合った授業と誠実な指導を提供する責任があります。しかし、現実には「その当然」が守られていない塾が、驚くほど存在しています。

「子どもを放置する塾」その実態とは

ある塾では、校舎長(教室長などの責任者)が授業中に受けた営業電話のため、教室を離れてしまう。しかも数分ではなく、20分、30分、時には1時間もの間、子どもたちは放置されたまま。

それが「新入塾希望者の問い合わせだから」なんて言い訳が通用するわけがありませんが、現実にある話。既に通っている生徒と保護者に対しての裏切り行為そのもの。授業料を支払っている保護者の目を盗んで、こんなことが平然と行われているのです。これは受験指導でも教育でもなんでもありません。ただの詐欺行為と僕は思っています。

これだけでも十分酷いですが、さらに酷い話は、その電話対応に「授業をしていない」と苦言を呈した生徒に、あろうことかその教室長は「君は自分の頭もないのか?そんな場合、先生がいなくても自分で問題でも解いていればいいだろ!」と逆ギレ。当然、そんな教室の空気は荒れ、生徒のやる気も失われていくばかりなのは言うまでもありません。
(ちなみに、この教室長にはここでは書けないくらい多くの酷い話があります)

しかしながら残念なことに、それでもなかなか親の耳には届かない。そして多くの場合、「塾に通っているから大丈夫」と安心してしまうのです。

「知名度や規模」は教育の質を保証しない

「有名な塾だから安心」「駅前にたくさん教室があるから大丈夫」
そう考える方もきっと多いでしょう。

ですが、指導の“質”は、会社・塾の規模や広告の派手さでは決まらない
どれだけ子どもに向き合い、真剣に成績を上げようとしているのか――そこにこそ、見るべき価値があります。

一部の塾の話ではありますが、拡大した校舎数に対して指導者が不足し、結果として教室の運営は新規の営業優先。授業はアルバイト任せ、答案管理もずさん、子どもたちが「塾=つまらない・意味がない」と感じるようになってしまっている現場も、現実に存在します。

「慣れた環境」に甘え続けることが、最も危険

成績が上がらない、子どもがつまらなそう、やる気を感じない。そんな時でも、「でも、もう慣れてるし…」と様子を見たくなってしまう保護者の方が多いのも事実です。

しかし、そこで問いたいのです。

その“慣れた環境”は、本当にお子さんの力になっていますか?

合わない塾に慣れることは、決してプラスではありません。むしろ、それに慣れてしまうことで、子どもは違和感すら感じなくなり、自分の可能性を狭めてしまいます。

本当に意味のある「慣れ」とは、成長を実感し、自信を持てる場所にこそ生まれるものです。

転塾のタイミング、「今」なら間に合う

ときどき聞かれるのが「転塾って、いつまでなら間に合うんですか?」という質問。

僕の指導経験上で言わせていただくと、6年生の1学期までならまだ間に合います。夏期講習から新しい環境に馴染み、2学期からの本格的な追い込みに備えることができるからです。

でも、実はそれだけではありません。

生徒によっては、2学期や直前期でも間に合うこともあります。
私の教え子の中には、なんと受験のわずか1か月前に塾を変え、見事に合格を勝ち取った子もいます。

「そんな直前で何が変わるの?」「それまでの塾のおかげじゃないの?」と思われるかもしれません。

ですが、それは確実に違うと自信を持っていえます。

勉強は“空気”と“心”で変わる

塾は、単に机に向かって授業を受けるだけが全てではありません。
教室の雰囲気、先生のエスコート、同じ教室で頑張るライバルの姿――それらが子どもに与える心理的影響は、想像以上に大きいのです。

むしろ、受験が近づけば近づくほど、環境がメンタルに与える影響は大きくなります。

明るい先が想像できないようなこう着状態が続く塾ではなく、「ここでならいけるかも」と思える空気の中で学ぶこと。それだけで、子どもの集中力も姿勢も大きく変わるはずです。

環境が変われば、たとえ残り時間が少なくても、驚くほどの成果が出る。これは、現場で何度も目にしてきた確かな事実です。

「丸投げ」は、子どもを守れない

ここまで読んでいただいた方には、ぜひお伝えしたい。

塾は、安心して“丸投げ”できる場所ではありません。

賢く立ち回れる保護者は、定期的に子どもの様子を見て、塾での変化にも敏感です。そして、子ども自身も「なんか違うな」と思ったら、しっかり親に伝えています。

ですが、親に心配をかけたくないという思いから、本音を隠す子どもも中にはいます。「先生は忙しそうだから」「こんなもんかな」と、違和感にフタをしてしまう子もいるのです。

そのサインを見逃さないためにも、ぜひ一度、塾や授業について、お子さんと日頃からコミュニケーションをとるようにしてください。

「転塾」それは勇気ある“前向きな選択”

「転塾」は必ずしも逃げや失敗ではありません。それは、子どもの未来に真剣に向き合うからこそできる“勇気ある選択”と個人的には思います。

迷いを感じた時、子どもが苦しんでいると感じた時。それは、行動すべきタイミングかもしれません。

信頼できる指導者に相談し、必要と判断すればスパッと環境を変える。それは、子どもにとっても親にとっても、未来を変える大きな一歩になるはずです。

おかしいかも?と感じたら、今の環境(塾)を盲信せず、冷静に見直すこと。それは、親にしかできない責任であり、最大の愛情。あなたの大切なお子さんの環境を見直すきっかけになればと思います。

紙の教科書が教室にもたらす「落ち着き」──デジタル時代の教育を問い直す

先日、読売新聞に掲載されたある記事が強く印象に残った。
一見すると時代に逆行するように見えるが、教育に関わる者として非常に重要な問いかけが含まれていた。

内容は、海外で進む「デジタル教育の見直し」について。
子どもたちの学力低下や心身の不調が明らかになる中で、これまで積極的にデジタル教材を導入してきた北欧諸国が、紙の教科書やノートへの回帰を始めているというのだ。

 フィンランドの変化が示すもの

特に教育先進国フィンランドの動きが印象的だった。
同国は1990年代からICT教育を国家プロジェクトとして推進し、2000年のPISA(国際学習到達度調査)では読解力世界一、数学的応用力も世界2位という成果を上げた。
しかし近年、その順位は大きく落ち込み、国内では「教育は急速なデジタル化に耐えられなかった」との反省の声が上がっているらしいのだ。

興味深いのは、単に方針転換したのではなく、現場からの強い声に後押しされているという点だ。
保護者の約7割が紙教材を希望し、教員の8割以上が紙の教科書を使いたいと答えた。
「PCではどこを読めばいいか分からない」「紙のほうが理解しやすい」といった、学習者の率直な声も報告されている。

ある校長先生の言葉がとりわけ心に残った。

「紙の教科書は教室に落ち着きをもたらす」

 教室の空気は教材でも変わる

この言葉に、深く頷かざるを得なかった。
授業においては、内容の質と同じくらい「空気感」が大切だということを、私自身もこれまでの指導経験から痛感している。

これまでは「教室の空気を整えるのは指導者の力」だと考えていたが、教材の種類そのものが空気感に影響するという視点は、新鮮でありながら納得感があった。

確かに、タブレットやPCには通知や操作音、ブルーライトなど、多くの無意識の刺激が伴う。
これが知らず知らずのうちに集中力を奪い、学びのリズムを乱しているのかもしれない。

「古い」と言われても、守りたいものがある

私は今、リモート指導や映像配信も手がけているが、教材に関しては今も紙ベースを推奨している。
特に自学自習の時間においては、授業以外の時間はタブレット等の使用は最小限にすべきだと考えている。

こうした意見を述べると、「古い」「アナログだ」と批判されることもある。
だが、“新しい”ことが必ずしも“良い”とは限らない。

私たちが問うべきは、「便利かどうか」ではなく、
「それが子どもたちにとって本当に良い学びをもたらすかどうか」ではないか。

テクノロジーの恩恵を否定するつもりはない。
しかし、それに振り回されず、必要に応じて立ち止まり、見直す勇気が今の教育には求められていると思う。

 最後に、親として、教育者として

私は一人の教育者として、そして親としても、
この問題にもっと多くの人が関心を寄せてほしいと願っている。

教室の「空気」は、子どもの心身とよく似ている。
騒がしさやざわつきがあれば、学びはうまくいかない。
静かで落ち着いた空間こそ、子どもたちが安心して学び、成長できる場になると思っている。

紙の教科書がもたらす落ち着きを、もう一度見直してみてもいいのではないだろうか。

見て見ぬふりが命を奪う──いじめと教育機関の責任

昨今、子どものいじめに関する痛ましいニュースが後を絶たない。特に目立つのは、学校だけでなく、学習塾や習い事といった教育機関におけるいじめの発生と、それに対する大人たちの対応の悪さだ。子どもが通う場である以上、学校と同様にこうした場にも厳しい目を向け、必要に応じて外部からの監視や介入を強化する必要があるのではないか。

「見て見ぬふり」の塾──被害者を守れなかった例

以前私が講義をしていた進学塾で発生したいじめ事件。小学生の男子生徒が、同じクラスの子から繰り返し「できそこない」「アホ」「死ね」「貧乏」などといった暴言を浴びせられ、授業中に文房具を壊されたり、ノートをゴミ箱に捨てられるなどの被害を受けていた。担当の先生に相談したものの、「受験のストレスもあるし、あまり神経質になるな」と取り合ってもらえなかったという。

やがてその生徒は不登校状態になった。親御さんと相談して塾本部にも報告したが、結局塾側は正式な謝罪や説明もなく「自主退会扱い」として処理した。当然、再発防止に努めようと加害側の内部調査すら一切行っていなかった。結局、問題が公になるまで対応しないのがこういった組織だと痛感させられた。

教育機関は「学びの場」である以前に「安全の場」であるべき

子どもにとって、学校や塾は単なる勉強の場ではない。人間関係を学び、社会性を育てる場でもある。しかし、その場が安全で安心できない空間になったとき、子どもたちの心は深く傷つく。最悪の場合、自傷行為や自殺という取り返しのつかない結果にもつながる。

文部科学省の2024年の調査によると、小中高校で認知された「いじめ」の件数は過去最多の約73万件に上り、うち1,300件以上が「重大事態」として報告されている。その中でも最も多いのが小学生だ。だが、こうした統計には塾や習い事教室などの民間教育機関は含まれていない。つまり、そこでは何が起きているか、社会はほとんど把握していないのだ。

多くの教育機関では、いじめに関するルールやマニュアルが整備されておらず、職員や講師の意識にも大きなバラつきがある。「指導の一環」として威圧的な言動が黙認されることも少なくない。また、塾に通う子どもたちは「やめたら受験に不利になる」「親に迷惑がかかる」といった不安を抱え、声を上げづらい。

外部の監視と保護者の目線の必要性

報道等を見ていると事例に共通しているのは、教育機関が「組織としていじめに向き合わなかった」という点である。いじめは、当事者の問題に見えて、実は「大人の責任」だ。塾や教育機関の運営者は、「教育」という看板を掲げている以上、学力の向上だけでなく、安全と人権を守る義務がある。

そのためには、保護者の積極的な関与と、地域社会による外部からのチェックが不可欠である。第三者委員会の導入、また定期的なアンケート調査や子どもの声を聞く仕組みをつくることも有効だろう。さらに、塾や民間教室にも、学校と同様に「重大事態」の報告義務を課すような制度改革も検討すべきではないだろうか。

子どもの声を聞ける社会に

いじめは、加害者と被害者だけの問題ではない。その場にいる「見ていた人」、そして「見過ごした大人」の問題でもある。そして何より、いじめは大人が本気で対応すれば、防げるものでもある。

教育機関、特に塾や私塾など、民間で運営されている場所であっても、「学びの場」である以上、そこに通う子どもたちを守る責任がある。子どもは、大人の都合でつくられた空間に生きている。その空間が安全であるかどうかを、常に疑い、見直す姿勢が求められている。

私たち大人ができることは、子どもの小さな声に耳を傾け、それを「たいしたことない」と片付けないこと。そして、どんな教育機関であっても、子どもの心と命を守るために目を光らせ続けることだ。

「飛べないノミ」になっていないか?──可能性にフタをする前に

人は生まれた瞬間、まだ何の挫折も経験していない。
勝ちも負けも知らず、「どんな人生を歩んでいくのか」は誰にもわからない。
つまり、誰しもが無限の可能性を持っている。

しかし、年齢を重ね、経験を重ねるうちにこう思ってしまうことがある。

「自分はこの程度だろう」
「あのとき負けたから、自分には向いていない」

過去の失敗や挫折にとらわれて、自らの可能性に“フタ”をしてしまう。
そしていつの間にか、「今の自分」を守るために「これが限界」と思い込んでしまうのだ。

ノミとコップの話

ここでよく思い出す寓話がある。
それは「ノミとコップ」の話だ。

ノミは、体は小さくても驚くほど高くジャンプできる生き物だ。
しかし、ノミを蓋つきのコップに入れると、何度ジャンプしても蓋にぶつかる。
やがてノミは「この高さまでしか跳べない」と学習してしまい、蓋を外してもその高さ以上には跳ばなくなってしまう。

本来持っている力すら、自分の思い込みで失ってしまうのだ。

では、この「飛べなくなったノミ」が再び高く跳ぶためにはどうすればいいか?

それは、高く跳べるノミと一緒に過ごさせることだ。
高く飛ぶ姿を見ることで、「あ、まだ自分も飛べるかもしれない」と希望がよみがえる。

ノミと人間を一緒にするのはいかがなものかと言われそうだが、人間にも当てはまる部分はないだろうか。
何かに挑戦してうまくいかなかった経験や、人と比べて落ち込んだ経験が、知らず知らずのうちに心の蓋を作ってしまう。
でも、そんなときにこそ「飛べる人」を見ることが大事なのだ。

「オレとは違う」と言い訳するのではなく、
「自分も飛べるかもしれない」と信じてみる。

そこから、再び歩み出せるはずだ。

挫折は“今”のすべてを否定しない

ちょうど今、中学受験が終わり、大学入試も私立は大詰め、国公立は本格化している。
推薦などですでに結果が出ている人もいるだろう。

思い通りにいかなかった受験生には、こう伝えたい。

受験は結果がすべてに見えるかもしれないが、
本当に問われているのは「これまでの歩み」と「これからの姿勢」だ。

不合格は、人生における“初めての挫折”にすぎない。
合否がすべてではない。
それをどう糧にするかは、自分次第なのだ。

自分の限界を、勝手に決めない

来年以降に受験を控える高校生や小学5年生のみなさん。
どうか、自分の限界を簡単に決めないでほしい。
そして、まわりの力をうまく使って、学び続けてほしい。

ときに周囲に振り回されることもあるかもしれない。
でも、人の力を借りて成長することもまた大切な力だ。

そして何より、諦めないこと。

失敗も、不合格も、苦しい経験も、
そのすべてが「飛ぶための準備」になると信じて、進んでほしい。

中学受験を途中でやめた家庭へ──その決断は、逃げではなく真の選択だった

中学受験――。それは単なる試験ではない。
それは親子の時間の使い方を変え、生活のリズムを組み替え、家庭全体を巻き込む、一大プロジェクトである。特に「中学受験ありき」の教育方針を掲げてきた家庭にとって、それはもはや“挑戦”ではなく“前提”だったに違いない。

数年がかりで積み上げた受験体制、塾選びや学校説明会への参加、日々の宿題や模試の結果に一喜一憂する日常。
それらすべてを重ねながら歩んできた道を、途中で止まるという決断は、実に重いものだ。

昨年もホント数える程度の数だが、中学受験から撤退したご家庭の相談を受けた。

やめることは「撤退」ではない

世の中には「最後までやり切ること」が美徳だとする空気があるのも事実。
もちろん、努力を積み重ね、ゴールまで走り抜けることには大きな価値と思う。だが、途中で立ち止まり「この道を歩ませることが今のこの子にとって本当に良いのだろうか?」と見直すこともまた、極めて価値のある行動だ。

受験期に入ると、子どもの学力や精神的な変化、家庭のバランスなど、多くの要素が複雑に絡み合う。
その中で「今は続けるべきではない」と判断し、あえて一度止まる選択をした家庭には、冷静な分析と深い愛情がある。
それは決して逃げではない。むしろ、熱意と冷静さの両方を持ち合わせた者にしかできない、成熟した決断のような気がする。

「やめた子」は敗者ではない

中学受験を途中でやめた子どもたちは、決して「途中で挫折した子」などではない。
彼らは、それまでに多くのことを学び、鍛えられた存在でもある。

計画的に物事に取り組む力、継続する力、知的好奇心、そして何より「目標を持つ」ことの大切さ――。
受験勉強を通して得たそれらは、今後の人生において確実に糧となるだろう。

また「このまま受験を続けるよりも、別の道を選んだほうがよい」と判断し、切り替えた経験そのものが、柔軟な思考力と自己理解の土台を育むことだって十分あるはずだ。
このような経験は、受験に合格することとはまた別の、人間的成長を生むと思う。

だから、たとえ途中で受験をやめたとしても、その過程で得たものは何一つ無駄になっていない。むしろ「そこまで真剣に向き合ったからこそ見えた選択肢」があったのだと言えるだろう。

うわべの言葉に振り回されるな

近頃、動画サイトなどで「学歴がなくても僕のように生きていける!」「受験に失敗しても大丈夫!」といった発言をする先生がいるとある保護者から聞いた。
自身の学歴や受験経験の乏しさを逆手にとり「自分のように受験をしなくても問題ない」と語る受験系インフルエンサーだ。

聞くとなんと、某塾でのも講演で堂々そう語っていたらしい。招いた塾側はそれをどう思っているのだろうかは知らないが、だが、そうした言葉に耳を傾けすぎることは危険だ。

なぜなら、それらの言説は、自身の“特殊な成功体験”を一般化して語っているに過ぎないからだ。
本人がどれほど環境に恵まれていたか、どれほど運が良かったか――それらの背景を考慮せずに「受験なんて必要ない」と語る姿勢は、あまりに無責任だからである。

真剣に中学受験に取り組み、未来を見据えて選択を積み重ねてきた家庭にとって、そういった発言は参考にはならない。
自分たちの歩みと、他者の“極論”は、「土俵がそもそも異なる」。

だからこそ、途中で受験をやめるという選択をした家庭は、自信を持ってほしい。
真剣に中学受験という制度と向き合い、その上で自分たちの道を選び直した。
それは、何よりも価値ある判断であり、責任ある選択だ。

これから始まる人生に向けて

中学受験の合否が、人生を決定づけるわけではない。
その過程で何を選び、どう感じ、何を考えたかこそが、その後の人生の強靱な土台となるだろう。

「やめた」という事実にとらわれる必要はない。
むしろ、真剣に向き合ったからこそ、「今やめることが最良の選択である」と判断できた。
それはまさに、「受験という経験」を全うした証拠でもある。

子供たちは新しいスタートラインに立っている。
別の場所で、自分に合ったペースで、再び夢を描き始めればいいと思う。

中学受験は、続けることにも価値があり、やめることにも意味がある。
どちらを選んだとしても、それが本気の選択である限り、立派な人生の一部であることに変わりはない。

中学受験は「一発勝負」――その日にピークを持ってくる力

いよいよ中学受験のシーズンが本格的に到来。
先週末から一部の地域では入試が始まり、関東や関西の主要校も、まもなく本番を迎える。

子どもたちが何年もかけて準備してきた「その日」が、ついにやってきます。

この時期、最も大切なのは学力以上に体調管理最終調整

いくら演習を積み、模試で高得点を重ねてきたとしても、入試本番で実力を発揮できなければ、入試だけを見れば意味がなくなります。

受験という舞台では、「その日、その瞬間」にベストパフォーマンスを出せるかどうかが、合否を大きく左右する。

本番で崩れる子、力を出し切る子の違い

毎年のように、模試でA判定を取り続けていた生徒が不合格になる一方で、模試では決して目立たなかった子が本番で合格を勝ち取る例を目にします。その差を生むのは、学力だけではない。

「いかにその日にベストの状態で臨めるか」――これが最大のカギです。

体調が万全であること。心が落ち着いていること。過度に緊張せず、集中力が保たれていること。これらすべてが「本番力」として問われます。

逆に、どれほど頭の中に知識が詰まっていても、風邪を引いていたり、緊張で頭が真っ白になってしまったりすれば、その力は発揮されません。

 一発勝負の怖さと意味

多くの学校では、入試はたった一度きりの本番勝負。受験生の何年もの努力の記録が提出されるわけではなく、その一日・一試験で合否が決まります。

もし、努力の量や塾での成績が評価されるシステムであれば、真面目にコツコツ取り組んできた子どもが確実に評価されるでしょう。しかし、現実は違う。

「その日、できたかどうか」――それがすべてなのです。

女子マラソンの五輪メダリスト・有森裕子さんは、以前こう言っていました。

「一番強い選手ではなく、4年に一度のその日に一番の調子を持ってきた人が勝つ」

受験もまさに同じ。
「できるかどうか」より、「できる状態にもってこられるかどうか」。それが、受験という“勝負の場”の現実だ。

 コンディション調整も「受験力」

このような現実を踏まえれば、受験において問われているのは単なる学力だけでないことが見えてくる。

・睡眠や食事などの体調管理を徹底できているか
・試験前の過ごし方、当日の気持ちの整え方ができているか
・トラブル(忘れ物・遅刻・緊張など)に動じず、平常心を保てるか

これらはすべて、子どもと親の両方が準備すべき「実力」なのです。

たとえば、「風邪を引いて実力が出せなかった」「緊張して頭が真っ白になった」という声は、もはや毎年の“恒例”と言ってもいいほどよく聞きます。

でも、それもまた“実力の一部”として見なされてしまうのが受験の厳しい現実です。

来年以降の受験生へ

中学受験は、毎年「一番寒い時期」に行われます。だからこそ、学力のピークだけでなく、体調と気持ちのピークもその日に持ってこられるように意識しなければなりません。来年以降に中学受験を控えている家庭は、この事実を今からしっかりと認識しておくべきです。

また模試で良い成績を取れなくても、本番で結果を出す子はいます。反対に、模試では安定していても、本番で失敗する子もいる。

この不確実さを乗り越えるには、早いうちから「本番力」を意識した生活・学習・心の準備が必要なのだと肝に銘じておくようにしましょう。

最後に

中学受験は、子どもにとって初めての「社会的な勝負の場」です。
しかしその本質は、知識の量ではなく“当日の総合力”にあるということ。

「受験は一発勝負」――この言葉の重みを、どうか親子で共有しておいてください。

努力を成果に変えるには、最高の状態でその一日を迎えること。それが、受験において最も大切な戦略なのです。